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2009-03-23(Mon)

ちょっとした話 20

20、『キャラクター』について
  「俳優の仕事の面白いところは?」
  とか、
  「なぜ役者になったのですか?」 というインタビューに、 「いろんな人の人生を体験できるからです。」 と、答えている人がいます。 若い俳優さんに多いのですが、そんな風に答えられるなんてすごいなぁ~、と思います。 と同時に、それってどういうことだろう? いろんな人生を体験できるって、どう素晴らしいのだろう?
  答えている人は、自分が喋っていることの意味を、どのように考え、理解しているのだろう?と不思議になります。
 
 
 なにを隠そう、私めも、昔、「なんで役者なんかやってるの?」
 と聞かれて、同じように答えたことがあります。
 
 私の場合、理由が見つからず、有名な俳優が言っていたことを真似しただけでした、ハイ…。
 なんか、もっともらしい答えでしたから。
 
 ですから、若い俳優さんがそんなふうに答えを持っているのが、正直すごいなぁと思うのです。
 
  みなさんは、考えたことがありますか?
 『いろんな人の人生を体験する』とはどういうことでしょう。
 何が、どう素晴らしいのでしょう?
 
  それでは、今回のテーマ、『キャラクター』について。
 
  スタニスラフスキー・システムにおいて、《キャラクター》は、たいへん重要な要素のひとつです。 アニシモフ氏いわく、
 …「ロシアの演劇学校では、キャラクターを観察するための特別な時間が、授業の中に、ちゃんと設けてあります。」 キャラクターを観察するための授業時間? なんだ? ほんとかね?
 しかし、ふと、むか~し、むか~し、『スクリーン』だか『ロードショー』という雑誌
 
 (「おお!」、と思ったアナタ、なかなか、むか~しの人ですね~)
 
 に、映画『トッツィー』の特集で、ダスティン・ホフマンの趣味は、
  『覗きです』
 
と、書いてあったのを思いだしました。 いつも、双眼鏡を持ち歩いている、と。
 子供心に(中学生だか高校生でしたが)なんて、いやらしい、情けない趣味だろうと思ったものです。 スターなんだから、スポーツとか、スキーとか、ヨットとか、そんなんじゃないの? 『覗き』? カッコ悪~、と。
 
 ところで、《キャラクター》には二種類あります。
 
 
 《内的キャラクター》と
 
 《外的キャラクター》。
 
 
 この二つは密接に関係しています。
 
 
 
 以前、東京ノーヴイに、映画監督の新藤兼人さんがいらして、
 
 
 「演劇の場合、2ヶ月、3ヶ月の稽古を経て、初日の幕が開いた時点でキャラクターが完成していることは、まず無い。」
 
 とおっしゃいました。
 
 では、映画の場合。
 
 簡単に言えば、
 
 「撮影期間に制限があるため、多くの場合(俳優さんによるとおもうのですが)、監督が衣装なりメイクなり、癖などの身体的特徴、すなわち《外的キャラクター》を俳優に与え、何カットか撮る。
 最後は、もっともキャラクターの筋が通るように、編集作業をする。」
  とのことでした。 つまり、演劇にしろ映画にしろ、俳優に 《内的キャラクター》

が確立するのには、かなり時間を要する、ということです。
 再三述べておりますが、俳優の仕事の大半は、《神経系》の分野。 つまり《内面》の作業。 いくら《外的》なものをくっつけても、《内的》なものが無ければ、通用するのは1、2回。すぐに形だけになり、面白くなくなります。 実証済みです(ハァ~、ため息)。
 では、どうやって《内的キャラクター》を掴み取ればよいのでしょう。
 人は皆、個性を持っています。 《キャラクター》とは、まさに《個性》のこと。 それは、ウン十年かけて、いろんな影響によって形成されますよね。
 俳優は、役の数の《個性》を、トレーニングの中で育て上げるのです。
 
 考えただけでも、相当困難な作業。
 自分の内側に、別の《個性》を作り上げるなんて!
  で、2、3年前、早朝のバイトが終わって、劇場へ行くまでに時間があるとき、 『覗き』…じゃなかった、『観察』 を試したことがありました。 ま、目の前を通る人々を見てたわけです。
 
 
 「なんか気になるなぁ。」 という人が、《身体的に》どんな特徴を持っているのかを『観察』してみたのです。
  例えば、 A、シャンと背筋を伸ばして、両手も伸ばして、サクサク歩く人。
 (サァ、みんなもやってみよう!大丈夫、自分の部屋なら、誰も見てません。 ぜひ、すぐ、今、やってみてください。)
 
 今度は、
 B、胸を張って、膝は緩めて、ちょいとアゴを出し、手の平を正面に向けて、ノッシノッシと歩いてみよう!
 さぁ次は、 C、背中を丸めて、ややがに股、アゴ出して、手の平を後ろに向けて歩いてみよう!
 やってみましたか?
 街には、そういう人々が、本当にたくさんいるのです。 もっといろんな人がいて、歩き方だけでなく、漫画みたいなキャラクターは実在するのです! い~っぱい。
 私のカンジだと、 Aは、『几帳面で若々しく、反応が速く鋭い。ただし、融通が利かず、見落とすものもいくらかある』ような。 Bの場合、『なんかエラくなったような、冷静で、観察力が上がったよう。ただし、何か見下すようなカンジ』がします。 つい、ゆっくり首を上下させたりと、オプションも付きます。
  Cだと、『おとなしく謙虚な、力強い、けれども粗野で警戒心の強い、少々内にこもった性格』を感じます。 それぞれ、歩き方(姿勢)を変えるだけで、目付きや、視界が変わったように感じます。
 
 きっとみなさん、私とは違う個性をお持ちですから、全く同じ結果にはならないでしょう。 また、何度かやってみると、その時々で感じ方が変わるでしょう。
 《内的》なものと《外的》なものは、影響しあっているのです。
 戯曲の登場人物について、正確な分析をしたあと、自分の知ってる 《似たような人》
を探します。 その人の、もんのすご~く特徴的な部分を見つけます。 例えば、口元の動き、手の動き、首の動き、姿勢、歩き方、話し方などなど、独特の《身体的行動》、いわゆる《癖》ですな。 超・超・個性的で、強烈であればあるほど、《キャラクター》に使えます。
 その《身体的特徴》が、《キャラクター》の
 
 《種》
 
 と呼ばれるもの。
 『最も重要なことは、
 《身体的》特徴が
 《神経系》に影響を与えるという点。』 《種》の作用によって、
  ○身体感覚 ○行動の仕方
 ○ものの見方
  そして何より
 
 ○思考回路
 
 全てが、一気に変わるのです。 《内面》の《思考回路》が変わることによって、《外的》行動(反応の仕方)が変わります。 《内的キャラクター》がなければ、形だけの反応になる所以です。
 そして、《内的キャラクター》のスィッチを ON! にするのが、《種》なのです。
 
 ☆☆☆☆
 
 強烈な《種》が、身体感覚を通して俳優の《意識》に作用し、《内面》を変え→
 →現れた《内的キャラクター》の《思考回路》が、俳優の中で働き→
 →《内的キャラクター》が《外的キャラクター》の《身体的行動》を支え続け→
 
 →その状態で《存在》し、《交流》することが自然になる。
 ☆☆☆☆ これが、《キャラクター》の仕組みです。 たぶん、間違いないと思います。 ですから、俳優の作業としては、
 
 まず、《神経系》を変えてくれるような《強烈な種》 を見つけること。
 次に、そのキャラクターの《種》が、自分に有効に働いてくれるかを、実践を通して試してみること。 ダメなら、別の《種》を探さねばなりません。 同じような《種》でも(例えば、いつも下唇を突き出している、とか)、人によっては全く役に立ちません。
 なぜなら、元々の個性が違うからです。
 
 そして、有効だとわかったら、さらにリハーサルや公演で、《種》を育ててゆくこと。
 《種》は芽を出し、《花》を咲かせ、《実》をつけます。
 《種》と《実》の姿が違うように、
 《実》になったキャラクターは、最初に見つけた『似たような人』の単なる物まねとは、違ったものに育ちます。
 トレーニングを続ける中で、俳優の個性と交じり合い、世界に一つだけの《実》を成らせるのです。
 
 間違いなく自分自身であり、普段の自分とは違う自分。
 
 さてさて、《キャラクター》についてのお話は、まぁこれぐらいで、では、最初のお話。
 『いろんな人の人生を体験できる』とは、どういうことでしょう。 『どう素晴らしい』のでしょう。
 簡単に言いますと、
 今まで理解できなかった、いや、理解しようとさえ思わなかった《考え》を、ほんの少し受け入れられるようになること。 相手の立場、考えなどを感じ取る《意識》が育つといいますか。
 そうすると、(少しですが)人間を含め、世の中の見方が広くなるといいますか、心の余裕を感じるといいますか… …いや、まずは、自分がいかに狭く、小さな人間であったかを再認識できることかもしれません。
 そして、なんだか、 「人間って、なんてかわいいのだろう」 と、思えてくることがあるのです。
 『愛すべき個性の数々』 世界は、そんな『個性』の集まり。
 認め合い、助け合おうじゃないの!
 
 もちろん、難しいことなんですがね~。
 
 
 
 ………
 「趣味は『覗き』です。」
 
 …ダスティン・ホフマンの答えには、もちろんユーモアも込められていて、なかなか味なもの。
 
 彼は、
 《人間が好きなんだなぁ》
 と思います。 《人生》が好き、《俳優業》が好きなんだなぁ。 と。 今回も、長くなりましたなぁ~。 では、また…。
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2009-03-19(Thu)

ちょこちょこっとした話 7

ちょこちょこっとした話 7
 
 『カムパネルラの母』 さて、今回は、読み物です(じゃあこれまでは、なんだったんだ、と。)。 読み物ですから、今回はすご~く、ものすご~く長いですよ~。
 
  え~、
 わたくしは、宮沢賢治の研究者でも、学者でもありませんので、「まぁ、そんな考えもあるかね。」、と読んで下さい。 テーマは
 
 カムパネルラの母は
 『生きているのか?』
 『亡くなっているのか?』  「読めばわかるじゃないか。」 という声が聞こえてきそうです。
 
 東京ノーヴイでも、話に出たことはありません。   多くの人が、 カムパネルラの母は、『亡くなっている』 と考えているようです…。
  …ので、ま、「よしよし、読んでみてやるか。」と、暖かい目で、素人の推理を窘(たしな)めてやって下さいませ。 前提としてあるのは、『銀河鉄道の夜』が
 
 ☆《未完》の作品☆
 
 だということ。
  東京ノーヴイで上演しているのは、一番有名な第四稿。 賢治、存命のうちに書かれた最終稿。   決定稿ができないまま絶筆していますので、
 『正解など無い』
が正解でしょう…。
 
 
  では、また…。 
 
  …あ~いや、ここからです。
 
 
  ポイントは三つ。
  ◎ジョバンニの驚き ◎ほんとうの天上 ◎きれいな野原
 
  では……
 
 
 私たちは、スタニスラフスキー・システムを学んでいます。 その中に、《もしも私が》というメソッドがあります。 そこで、第一のポイント。
  ◎ジョバンニの驚き
  銀河鉄道に乗り込んですぐの、カムパネルラとジョバンニの会話で、賢治は、こう書いてます。
 
 『
 カムパネルラ…「おっかさんは、ぼくをゆるしてくださるだろうか。」
  ~(中略)~ ジョバンニ…「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」 ジョバンニはびっくりして叫びました。
 』 
  そこで、 《もしも私が》ジョバンニのような立場にいたら…。
 
 ○提案された状況
  小学生。たぶん4年生か、5年生ぐらい。
 仲のいい友達が、何かの理由で、お母さんが悲しむだろう、と感じている。 「お母さんの幸いのためなら、なんでもする。」と言う。
 
 
 ①、もしも彼の母親が『亡くなっている』としたら。
  言葉の意味は、 …「君のお母さんは、天国で安らかに眠っておられるのだから、しあわせでいらっしゃるでしょう。なんにもひどいことは無いじゃないの。」
ということになりますか…。
 
 
 賢治は、
『ジョバンニはびっくりして叫びました。』
 と、書いています。
 
 何に《びっくり》したのか? 《叫んぶ》ほど。
 
 
 「カムパネルラ、君は天国のことをわかっていない!」
 と、《びっくり》したのでしょうか?
 「天国では、みんなしあわせのはずじゃないか!」
 と。
 思わず《叫ぶ》ほど。
 
 私が小学生だとして、お母さんを亡くした友達に、そう言うだろうか?  
 あまりに論理的で、倫理的で、道徳的で…。 そのことで、《驚ける》かしら?
 
 あなたなら、どうですか?
 
  これが、疑問の発端。
 
 では、
 
 ②、彼の母親が『生きている』としたら。
 
 《もしも私が》《びっくり》するなら、
 
 「いったい、何があったの!」
 と、《びっくり》します。 「最近、君のうちに行けなかったけど、君が、お母さんのしあわせを願わなければならないような…なにか、具合のわるいことでもあったの?!」 と。 これなら、びっくりしている小学生の会話を、自然に受け止められます。
 
 なぜ、多くの人が、 『亡くなっている』 と思うのでしょう? 私が思うに、理由は二つ。 銀河鉄道の旅の終わりに(天国の入り口近くで)、カムパネルラが《おっかさん》を見かけること。 もうひとつは、ラストシーンで、お父さんの博士は出てくるけれど、お母さんが出て来ないこと。 この印象が、とても強いのでしょう。
  さて、旅は続き… 第二のポイント
 
  ◎ほんとうの天上 列車は北十字を通って、終点の南十字へと向かいます。
 《ほんとうの天上》という言葉を初めて使うのは、《鳥捕りのおじさん》です。 ジョバンニの切符を覗き込んで、 「…こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。」
 鳥捕りのいう《天上》とは、どこを指しているのか。 おそらく、普通に言う《天国》でしょう。 《鳥捕り》はそこまで行けない。うらやましい。 「…天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券でさぁ。」 言うまでもなく、ジョバンニは現世へまでも帰って行けるということです。
 
  夢の中(別世界)では、
 心に思ったことが現実になったり、 知らないはずのことを知っていたり、 普通では起きないような不思議なことがおきたり…。 そうして列車は、だんだん高い精神世界を目指して、天上へと向かいます。 《鳥捕りのおじさん》は、命を捕って生活する段階の人。 旅の早い時期に現れ、去ってゆく。 『どこまででも行く』ことはできないのです。 タイタニックの三人は、生きようとしましたが、あきらめて、他の人々が助かったのを『幸い』としました。 『自己犠牲』の精神の高さで、《鳥捕りのおじさん》より、天上近くまで乗れるのです。
 シスターや、灯台守りなど、いろいろな段階の先生が、ジョバンニ達の前に現れ、精神世界のことを教えていきます。
  カムパネルラは、なぜだか最後まで、列車に乗っている。
 《自己犠牲》の意識の高さか。 ジョバンニがいる影響もあるのかもしれません。 まだ、魂の全てが、列車に届いていず、息を吹き返す可能性がある状態なのかも。
 そしていよいよ、別れの時。 そう、そうなのです。
 
 私もここまでは
 『カムパネルラの母親が生きていること』
 が自然に思われるのです。
 
 が、ここからは、どちらとも……。 《未完》ゆえなのかもしれません。
 
 
 旅が終わりに近づき、再び《天上》が登場します。
  ~サウザンクロス(南十字星)。 この停車場で降りて、神様の祝福を受けて、天国の門をくぐります。 かおる子のセリフ。 「…あたしたちもうここで降りなきゃいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから。」
  ……………
  え~ 東京ノーヴイの『銀河鉄道の夜』公演の時、岩手(湯田)の銀河ホールの館長をなさっていた、我々にはお馴染みの 新田さん が、アフター・トークで講演をして下さって、《宮沢賢治》についてお話下さいました。 ◎カムパネルラのモデルは、彼の一番の理解者であった、妹のトシであったこと。
 (トシは、若くして病気で亡くなっています。 賢治はその死をたいへん悲しみました。) ◎賢治はその後、鉄道を乗り継いで、北へ北へと、行けるところまで旅したこと。 トシを失った哀しみを乗り越えるための、思索の旅になったそうです。 そして、賢治は、 ◎トシは逝ってしまった。
 私たちは、悲しむために遺されたのではない。 この世界を、できる限り、より良い世界にするために残ったのだ。 という考えに、たどり着いたこと。 ◎その鉄道の旅が、『銀河鉄道の夜』に活かされている、と。  ………………
  私、その話を聞いて「ハッ!」としたのです。 サウザンクロスが近づいた時、ジョバンニとかおる子が《神様》について言い合います。 ジョバンニ 「…天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなきゃいけないってぼくの先生がいったよ。」 《天上》よりももっといいところ…。 それを僕たちは、《ここ》でこさえる…。 思索の旅を通して賢治がたどり着いた考え。 《ジョバンニ》は賢治自身だそうです。 《ここ》とは、もちろん、我々が生きている現世。この世。
  賢治の言う
 《ほんとうの天上》とは? 生まれ変わりを信じていたのなら、
賢治は、《トシ》とともにいた現世を、 再び《トシ》と巡り合って、二人で努力する来世(つまり、この現世)を《ほんとうの天上》だ
と感じ始めていたのではないだろうか…。 なんて、私、思ったのです。 ジョバンニは、懸命になって、みんなが列車に残ることを願います。 現世で、より良い世界を作ろう、と呼びかけます。
  ジョバンニが賢治なら、
 《天上》は《神様のいる天国》、
 《ほんとうの天上》とは《現世》
と、考えたのではないだろうか、と。
 さて
 
 ◎きれいな野原
 
 
 『
 「ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集まってるねえ。
 あすこがほんとうの天上なんだ。
 あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」
 カムパネルラはにわかに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。
 』
  このくだりがあるから、わからなくなるのですが、普通に読めば、そのきれいな表現からして《天国》だと感じます。 ここからは、まぁ、《ホント、もしかして~》の解釈ですが、
  《天国》であるとする解釈には、説明の必要はないでしょう。 お母さんは間違いなく『亡くなっている』のです。 もし、『生きている』としたら。 …人は、亡くなり、魂が体を離れると、自分を取り巻くようすを上空から俯瞰して見る、といいます。 この場合、そうとう上空ですが、そこはそれ、《不完全な四次元軌道》ですから。 カムパネルラが落ちた川の周りには、捜索する男達がいるでしょう。 女達が、家やほかの場所で集まり、知らせを待ったり母親を慰めることも、不思議ではありません。 『みんな集まってる。』
 
 カムパネルラの見た《野原》を、文字通り《草原》ととらずに、宇宙の一角にある《現世》の《イメージ》ととらえれば、
 (というのも、《野原》が《天国》を指しているなら、それもカムパネルラの心に映った《天国》の《イメージ》ですから…)
 
 いつもと違って、《銀河のお祭り》でたくさんの人々が町に繰り出している、ましてやカムパネルラを捜すために、『みんな集まっている』光景が見えたとも解釈できるのでは? カムパネルラの銀河鉄道の旅は、
 《お母さん》への心遣いから始まります。 最後に、天上へ行くまえに、一目《お母さん》を見ることで、終わるのではないかと。
 
 …そんな風にも思われるのです。 長いこと、読んでいただき、ありがとうございました。 ホント、長かったですね~。 第五、第六稿が書かれていたら、どんなだろうと思います。 《未完》の作品ですから、この長い考察でも、答えはわかりません。 ただ、賢治の優しい、高い考えに触れられることが幸いです。 『全体の幸いがなければ、
 個人の幸いはありえない』 …宮沢 賢治 まとまったような、まとまってないような…。 では、また…。
2009-03-13(Fri)

ちょっとした話 19

 19、『感情』と『エモーション』
 
 
 「ストップ!今の演技は《エモーション》です!!
 ニェーット!(No!)」
 
 
  …リハーサル中(稽古のこと)によく聞かれる、アニシモフ氏の☆激☆です。 
 
 俳優の心理が、エモーショナルなものに囚われている時、この☆激☆が飛び出します。
 
  私たちの劇団では、
  俳優の心理状態が良い時、《感情》が生まれると言い、
  心理状態が悪い時、《エモーション》になると言います。
 
 心理状態がいいとは?悪いとは?
 どうなるのでしょう? アニシモフ氏いわく、
…「《感情》は俳優を育て、作品を羽ばたかせ、
 
 《エモーション》は俳優も作品も、観客の心も壊してしまいます。」
  話の流れからして、そんなカンジはしますね。
 
  では、心理状態が悪い《エモーション》とは…
 
 
 …簡単にいえば、『ちょっとした話・7』で書きました、『デモンストレーションの芸術』…
 …『ウソっこリアル』の芝居から、生まれるものです。
 
 
 俳優が方向を見失っている。内面がからっぽ。
 
 それなのに、演技をする……俳優が、自分自身にウソをついていると、ひょっこり現れます。
 
  俳優は、実に簡単に、そこに足を踏み入れるものなんですよね~。
 《感情》と《エモーション》の違いは、見ていてすぐにわかります。
  《ペレジヴァーニェ…真実感覚》がやって来て(これって『やって来る』という表現が、一番ピッタリなんです)、
 ……やって来て、《感情》が生まれた時は、
信じられないぐらい面白く、逆に《エモーション》が現れた時の芝居は、ホンっトにきつい…。
 
  そのように、私たちは実践の場で目の当たりにし、その名称も耳慣れており、ふたつの違うモノとして、
 
 「ほほう、《感情》というのと、《エモーション》というのがあるんだな~。」 と、思ってました。 ~ところが
 ある日、アニシモフ氏いわく、
…「《感情》と《エモーション》は、別のものではありません。」
  なぬ?
 
 
…「どちらも《感情》です。」
  なぬナヌ?…ああ…そうか。そりゃそうか。 日本語で言えば、両方とも《感情》だよなぁ(ですよね?)。
 
 いわく、
 
…「両方とも《感情》ですが、二つの間には決定的な違いがあります。」
 フムフム。
…「その違いとは、
 
 『《考え》を伴っているか、伴っていないか』
 
の違いです。」 実に明快。単純。
 
 《考え》を失った《感情》が《エモーション》。
 
 ナルホド!
 
 《考え》を失っているということは、
 自分が何故そんな《行動》をとっているのか、
 何故、なんのために、それどころか、何を《喋って》いるのかさえわかっていないということ。
 
  …それは、からっぽであり、混乱であり、時に狂気でもあり…。
 
 
 え~、…もしかしてお気づきの方がいらっしゃるかも知れませんが、実は、今回のテーマは、前回から繋がっていて、俳優の『商品』である
 
  《感情》
 
についての話なのです。 ホントいうと、今回の『感情とエモーションについて』を、先に書き始めて…
 
 でも、「いきなり『感情とエモーションの違い』だけを説明しても、あんまり意味が無いかな~。」
と思い、前回、
 
 『《感情》って、俳優にとってなんなのよ?』
 
を、述べさせていただいたのです。 
  『ちょっとした話』を書き続けているうちに、わたくし、《感情》について考えることが増えまして、
 「ひょっとしたら、俳優の主要な仕事とは、《人間らしい、生きた感情の交流》なのではなかろうか。
 フ~ム、こりゃ、少しまとめてみようか。」
 
 と思ったワケです。
 
 
 
 私たち、演劇芸術を志す俳優が、毎回の舞台で実現すべきこと…
 
 …『《考え》を伴った《生きた感情》の《交流》』
 
 の話でした。
 
 
 …ところで、
 
 
 TVで北野武さんが、
 「歴史が証明してるけど、『政治の力では、世界を変えることなんてできない』んだ。」 と、おっしゃってました。(同感!) 昔、『芸術が歴史を動かす』、という言葉も聞いたことがあります。 人類の歴史は人類が造り、動かすもの。 人類の何が? それは、《考え》であり《意識》であり、《心》でありましょう。
  『芸術』が関わるのは、まさに《心》の分野。
  《エモーション》の持つエネルギーは、俳優・作品・観客の《神経系》を壊します。
 
 『芸術』が世界を変え、人類を導くエネルギーを内包しているなら、
 《エモーション》を《感情》だと思い込んでいると、
 『破壊』や『戦争』へと繋がることもあるのです。
 
 見せ掛けの《パワー》に振り回され、権力に利用されることもある。
 
 
 これも、たくさんの歴史的事実が証明してますね。 あらゆる国で。
 
 あー、わかりやすい例で言うと、『スターウォーズ』の《フォース》みたいなもので…(いきなり『スターウォーズ』かよ!)。
 
 「ダークサイドに陥ってはならぬ~。」
…あいやマジで。
 
 
 《感情》も《エモーション》も、人の心に影響を与えるエネルギーとして、たしかに在るモノ。
 エネルギーはエネルギーです。 あとは、選択する者の責任、《意識》の高さ、《考え》次第。
 《創造》にも《破壊》にもつながる道が開かれているわけです。
 『スパイダーマン』では(今度は『スパイダーマン』かよ!?…こういう映画も、結構見てます、はい)、おじさんがピーターに、
 「大いなる力には、大いなる責任が伴う。」
 と語る場面があります。ナントすぐれた《考え》でしょう! 私たちは《感情》の分野に携わる者。
 
 俳優の心理技術の向上とともに、高い《意識》を培う必要があります。
 
 また、そのようなことに一生係わるからこそ、俳優修業には価値がある…のではないでしょうか…な。
 
 
 いわく、
…「時として、俳優修業は、僧侶の修業に例えることができます。」
 ん~、そうかぁ、そうなのかぁ~。 そこに繋がるんでしょうね~。
 ま、僧侶と言っても、ナマグサ坊主であることは間違いなさそうですが…。
 
 地味だけど、やり甲斐のある、輝ける道であります…かな…。
  今回は、ちょいとマジメっぽい?
 
 そんなこともあるさ~。
 
 
  では、また…。
2009-03-06(Fri)

ちょっとした話 18

18、『職人さん』 てやんでぃ!
 
 
 …『商売道具』と、取り扱う『商品』の話でぃ~! 仕事するには、両方とも入り用なんでぃ!
 べらんめぃ。…あ、しつこいですね。
 
  …え~、私の実家は、自転車店です。 『商売道具』は、ドライバーや金づち、コンプレッサー…などなど。あと、身につけた技術と人柄。 『商品』はもちろん、自転車やバイクや、そのパーツ。 職業は様々ですが、それぞれに『道具』や『商品』があるものです。
  廻り道をせずに、ズバリ!
 
 
 「ほんじゃあ、俳優の仕事にとって、『道具』とは?『商品』とは?(例え方は様々でしょうが…)」
 
 ☆注意・私見でございます☆
 
  ○まず、『道具』
 …これまで、『ちょっとした話』を読んだみなさんは、もうお分かりだと思いますが、
 
 俳優の『主要な道具』とは、鍛え抜かれた肉体や、美声ではありません。勘違いし易いのですが…。
  それは、スポーツマンや歌い手の道具です。
  私たちが鍛えるべきは、《神経系》。
 
 …《心》という人もいれば《意識》という人もいるでしょう。
 
 鍛えるということは、具体的な何かであり、磨くということは、技であり、手段であり…。
 
  そこで私は、俳優にとっての
 
 『道具』とは、
 
  《神経系》
 
である、と述べさせていただきます。
 
 
  では今度は、
 
 ○俳優がお客様に提供する『主要な商品』とは。
 
 
 …さて、俳優が何らかの刺激・情報(商売でいう材料とでも言いましょうか)を《受容》すると、
 
 →『道具』である《神経系》《心》《意識》が働き、
 
 →《考え》が生まれ
 
 →《感情》が生まれます。
  そして、《感情》につき動かされて、《行動》が生まれます。
 
 
  以前、「観客とは、実に賢い人々である。」 と書きました。
 
 
 舞台上の《俳優の感情》が、本物かウソかを瞬時に見抜きます。
 
 
 ビジョンと交流を通して、俳優の中に立ち現れる《感情》のエネルギー。
 
 
 そう、観客が受け取るのは、目の前にいる俳優の《生きた感情》なのです。
 
 
 
 そこで、観客が俳優から受け取るモノ、
 
 ~すなわち、俳優にとっての『商品』
 
 私は、それを
 
  《感情》
 
 である、と述べさせていただきます。
 俳優が、
 ◎《今、この舞台上》で、
 ◎《戯曲のライン≒提案された状況》に沿って、
 ◎《内的ビジョン》を見て、
 ◎相手と《交流》する。
 と、◎《感情》が生まれる。
 
  そして、俳優同士の《生きた感情》の《交流》が奇跡を呼ぶ。
 
 
 それこそが、演劇芸術の創造。
 
 俳優が目指すべき、創造活動。
  観客は、俳優の内部で起こっている《感情》《心》の動きを感じとります。 
 
 
 観客は、汗だくで、やみくもに走り回り、大声でしゃべりまくる俳優の《姿》や《運動量》を見に来るのではないのです。
 
  汗だくになるなら、走り回るなら、その《行動》に駆り立てられる《理由》があります。
 
  《理由》と《行動》とがつながった時、観客は理解し、笑い、泣けるのです。 (まぁ、当たり前のことなのですが、これがなかなかムズカシイ!) 時に、全く動かず、語らずにいても、俳優の《内面》が手に取るように伝わり、感動を生むこともあります。
 
  アニシモフ氏いわく、
 
 …「スタニスラフスキー・システムとは、俳優の心理技術のためのシステムである。」
 
 
 
 ~以上、俳優業の『道具』と『商品』について、ザックリと私見を述べさせていただきました。 
 
 
  んが、ということは、見事な『商品』をお届けするために、俳優は常に『商売道具』に磨きをかけておく必要があります。
  欠けてもいけないし、錆び付いてもいけない。
  昔、我が劇団のO氏が、 「俺達は、職人なんだからさぁ~…。」 と、話してたことを思い出します。
  たしかに、そうかもしれない。今では、そうだなぁ~と確信になってきました。
  TVで、町工場のヘラ職人である松井さんという人が、
  「職人は、満足したら終わりだ。」 と、おっしゃっていました。
  私たちも一緒。
  常に『道具』を磨き、良い『商品』を提供していく。
  一生かけての修業。
  それが《職人》の歩む道です。 では、また…。
2009-02-22(Sun)

ちょこちょこっとした話 6

ちょこちょこっとした話 6
 
 『こんな〇○に、誰がした?』
 
 チェーホフを知ってますか?
  来年、生誕 150年 だそうです。
  ~いつでしたか、『かもめ』を見に来たお客さんに、 「チェーホフ作品なのだから、あんなに笑ってはいけないのでは…。」
との、ご意見を受けたことがあります。
  ワカリマス!!  そうなのデス!!  なぜか、
 
 
 チェーホフ=名作=難解……
 
…つまり、ムズカシイ、真面目な芝居だ!といったイメージがあるのです。
 
 
 全世界に、その傾向があると聞きました。
 
  私も、チェーホフの芝居を見る度に、
 
 「なんてムズカシイ芝居だろう…」
 
と思ってました。
 
 (だって、暗くてドヨ~ンとしてて、内容がよくわからないことが多かったのです。)
 
 で、
 
 「さすが、芸術作品とは、ひと味違うものだなぁ」
 
と、首をかしげながらも「なるほど、なるほど」と自分に言い聞かせ、妙に感心していたものです。
 
 
  そこで今一度、戯曲を見ますと、
 
  『かもめ』…喜劇・四幕
 
 
 『ワーニャ伯父さん』…田園生活の情景・四幕
 
 
 『三人姉妹』…戯曲・四幕
 
 
 『櫻の園』…喜劇・四幕
  …そう、喜劇、情景、ドラマ、喜劇、と書いてあるのです。
 
  チェーホフ作品は、基本的に
 
  《喜劇》
 
なのです。
 
  チェーホフは自分の作品に、難解さ、真面目さ(ことに、小難しい、オカタイ芝居)などというイメージを与えてはいないのです。
 
  真面目というなら、
 
 「マジメ過ぎてオカシイ!この人、オモシロ過ぎだろ!」
 
…な登場人物が出てくるぐらいです。 
 
 『櫻の園』などは、抱腹絶倒のドタバタコメディーだそうな!。
 読む人が読めば、『櫻の園』はまるで吉本新喜劇!
…んー、松竹新喜劇! 
 
 私も、そう思います。
 
 
  いったい、なぜ、いつから、
  《チェーホフ=名作=ドヨ~ン=う~ん、難解!》  
 
 
の図式が定着したのでしょう?
  もちろん、戯曲全体を通して、非常に高い、優れた人間考察や哲学が語られることに異論はありません。 その点では、真摯です。
  しかし、それを語る人物たちは、まぁ~ナントモへんてこりんな、それでいてその辺りに、あなたのすぐ傍にいるような、そんな人達なのです。
  複雑なプロットも、謎めいたこともない。
 あっけらか~んとしたものです。
 
 
 それでいて、緻密な伏線とリアリティあふれる進行、絶妙のタイミング(ジョークも)に、キラッと光る人間哲学。
  それがチェーホフ。
  アントン・チェーホフ氏いわく、
…「もしも私が、優れたボードビルを一本書くことができたら、もうそれ以上、なにも書かなくてもいい。 私の願いは、私の書いたコメディーが上演された翌日、掃除係りが客席を掃除したら、弾け飛んだボタンが100個見つかること。
  笑い過ぎて弾け飛んだ、観客のボタンが100個。」 なんと素敵な願いでしょう!
 
  トルストイも、
 
「真の芸術とは、あらゆる人に、実に明快に理解可能なものでなければならない。」
と、言葉を残しています。
  チェーホフは、人間を愛し、その愚かさに釘を刺しつつ笑い飛ばして、
…で、観客も、笑って笑って、怒ったり、悲しんだり、また笑って笑って笑っているうちに、気がついたら泣いている。
  それがチェーホフ。
 
 
 小難しい、難解な戯曲だなんて…
 
  …『こんなチェーホフに、誰がした?』 なんてまぁ、『誰?なぜ?』は置いといて、たくさんの《チェーホフ本来の世界》が、私たちに開かれることを願います。
  私たち、東京ノーヴイ・レパートリーシアターも、そこに向かっておる次第であります。
  で、来たる3月1日、《チェーホフ氏》をテーマにした《アートサロン》を開催いたします。
  奮ってご参加下さい。
  詳しくは、ホームページをご覧下さいませ。
  今回は、宣伝入りでお届けいたしました。
 
 
  では、また…。
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