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2010-04-27(Tue)

ちょっとした話 28

28、『デリケート・注意』



十年も前から、なん百回となく繰り返されてきた一言。


「デリケート!」

 
そう、アニシモフ氏いわく、
 

…「もっとデリケートに!」「デリケートください。」「デリケート~ォ!」


あら不思議! 
 
 そのたびに、俳優の声が小さく小さく、相手役にさえ聞こえないほど小さくなっていったものです。
 
十年たった今でも、しょっちゅう同じ現象がおきます。


私たちは『デリケート』という言葉の中に、

《静かに~、小言で~》

という《鍵》だけを読み取っていたわけです。


最初のころ…スタニスラフスキー・システムを学び始めたころは、それもひとつの有効性を持っていました。
 
なぜって、そのころは、中身カラッポなのに表現したい、結果をやりたい…つまり、上手くやりたいとばかり思っていて、悪いエモーションだらけの『演技』だったからです。
 
 
 静かに、小さな声で喋ることによって心も落ち着いて、《考え・思索》の方へ向かうようになれたからです。


 
ある時、アニシモフ氏いわく、

 
…「皆さんは、私が『デリケートに!』と言うと、とたんに声が小さくなりますねぇ。
なんでどーして?」

 
いやいや、なんでどーして?と言われたって、デリケートにやってるんですけど…。
みんな、そう理解しているのですから。

 
 
 いわく、
 
…「なるほど小さな声で喋ると、なんだか真実らしさ、生活っぽいものが出てきます。
 
しかし、それは《生活っぽい》のであって、《真実》《生活》ではないのです。
 
結果として、それはシステムや、チェーホフの陰に隠れようとすることになります。」

…「私の言う《デリケート》とは、《注意深くなる・繊細に敏感になる》ということです。
 
 
大切な俳優の仕事、《受容》。 
 
 
 つまり、《デリケートさが足りない》とは、相手を、周りの状況を、作品の中の考えを《受容》できていないということ。 
 
 
 《デリケート》とは、  

 必要なことに《意識》を向け、 
 《繊細に敏感に》なる、 
 ということです。」


なんだ~、そうなのか~。
なんか違うとは思ってたけど、《デリケート》についてみんな思い違いをしていたわけです(早く言ってよ~)。


4年ほど前にそんな話が出て、私としては納得できました。
 
もっとよく《観察》し、《受容》しろ、と。


でも、6間年も《ささやき》を《デリケート》だと思い込んできたわけで、4年前のアニシモフ氏のサゼスチョンを受け止められなかった場合、あいも変わらず、

 
「デリケート!」

の指示に、

《ささやき》だけ

で対応してしまうのです。
まぁ、無理もない、長~いこと、身体に染みついてきたことですから…。
 
 
 
さて、今期、つまり第6シーズンの初めで、

  『注意』

というメソッドが加わりました。

 
《意識》を、対象に向ける、すなわち《注意をはらう》ですな。

対象とは、
 
 相手の心情、外的様子、今目の前で起こっていること、雰囲気、自分の見ているビジョン、喋っている内容、考え、そして何よりも、相手が放射しているエネルギー。

戯曲のラインに沿って、今、一番自分に関連している人、物、出来事に対して、《意識》を向ける、《注意》を向ける、そして《受容》する。


文章にすると、なんかややこしそうですが、普段、何気なくやっていることです。

 
日常生活、色んなことがゴチャ混ぜに起こっています。 
 
 
 その中で、話題の中心や自分に関連したこと、一番興味のあることに、私たちはいとも簡単に、当然のように《意識》を向けます。
自然に、心のアンテナを向けている…。

 
 
俳優は、その自然さ、自由さを取り戻す必要があるという話。
 
 
 そう、《注意》のメソッドで《デリケートさ》を実践し、舞台に《生活感覚》《真実感覚》を呼び起こすのだ!
 

 ん~、《注意》とは、《デリケート》をもう一段掘り下げたものですかね。


最後にもひとつ。 
 

 《注意》と《デリケート》のメソッドを正しくやれば、 
 
  《大胆》 

 になれる!

 
《デリケート》←→《大胆》 
 
 
 ??不思議。
 …ちょっと考えると真逆、両極端(パラドックス)ですね。

ま、これについては、また別の機会に。


とにかく、

「デリケートぉ~~~。」
 
の声が聞こえたら、落ち着いて、注意深く《観察》して、《受容》して、《考え》て、《行動》してみることですな。


では、また…。
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2010-04-06(Tue)

ちょこちょこっとした話 11

 11、『チェーホフがいてくれた』


きたる6月、『国際チェーホフ祭』が催されます。

日、露、米、韓などの国々、演劇、ダンス、落語、講談などのさまざまな分野、いろいろなスタイルを交え、垣根を越えたフェスティバルになるようです。


そのキャッチコピーが

『チェーホフがいてくれた』


3年前、東京ノーヴイで開催したチェーホフ・フェスティバルのタイトルは、
 
『知恵豊富』祭


そのと~~り!!


人生の時々で、チェーホフ作品の中に込められた豊富な《知恵》が、私たちを助けてくれたのです。

 
助けは、いろんな形でやってきましたが、そのほとんどが、《気づかせてくれた》ことだったような気がします。


 
ワタシを直撃ヒットした一つが、『三人姉妹』のベルシーニンのセリフ。


かいつまんで… 
 
…「私は大学には進みませんでしたので、本を選ぶ術を知りません。
ですから、きっとくだらない本ばかり読んで来たのでしょう。 
それでも、歳をとって少しずつ世の中のことを知れば知るほど、あぁ、私は  
 《ほんとに僅かのことしか知らないんだなぁ》 
 と、痛感させられます。」


ビシ~ッ!と来ました!

 
 考えずにはいられません。
 
 
…私事ですが、競争に勝つよう、教育を受けてきました。 
 (案外、思い当たる方がいるのでは?) 
 
 
 「1番を目指さなければならない。偉い、りっぱな人にならなければならない。」
 
 
…そしていつのころからか、
 
「知りません・わかりません・できません」

と、簡単には言えないような性格を、身につけた気がします。


 
まったくねぇ、…今から思うと、なんであんなに意地を張ったのだろうかと、赤面するような、懐かしいような思い出がたーくさんありますよ~。

 
 
「オマエはわかっていない。」「いや、わかってる!」
「知らないじゃないか。」「いや、知っている!」
「出来ないだろう?」「いや、出来る!」…

…「オレには天からもらった才能があって、世の中のことはわかっている。なんでも出来るはずだ~。」
 
 
…《ある確信》に満ちて、こんなやりとりをしたものです。
 
 
どんな《確信》? 
 
 
 …おそらく、他人に勝たなければならないという《考え》が絞り出した《妄想》だったのでしょう。
 


なにしろ《確信》ですからね、我ながらタチが悪い(笑)。

「オレが正解だぁ~。」 
どうにも譲れない…。

 
 
もちろん、間違ってきましたとも! 
 世の中のことなんてわかっちゃいないから、い~っぱい失敗してきたんです。 
 
ほとんど失敗と言ってもいい。
 
 
でも、認められない、認めたくない。

 
 屁理屈でもなんでもいいから、自分を正当化していました。
 

 恐怖心……怖かったんですねぇ、バカにされるのが、笑われるのが。
親を含め、周囲からの評価が欲しかった。 
 
 
 強迫観念……期待を裏切ってはならない。 
 褒められなければならない…。
 
 
怖いのは、その全てが無意識だったこと。

 
 自分に問い直す回路を、どうしても開くことができなかったんです。

 
 
 やっかいなことに、この《確信》は段階を経て進化します。
 
 
 《できる》→できない
 
 →《そんなはずがない!》→ホントはわかってない
 
 →《自分は、やってる》→結果が出ない
 
 →《周りが間違っている》… 
 
 …ついには、「なぜみんな、私のことを評価してくれないんだ~!」
 
 …ま、なんという、ちっちゃーいエゴイズムでしょう。
 
 
 
 口では、言ってたんですよ、
「他人に勝つのではなく、自分に勝たなければならない。」

 
でも、それがどういうことなのか、実感はなかったわけです。

 
《勝つ》のではなく、《克つ》のだ(日本語ってスゴイ)ということを、実感できてなかった。


 
スタニスラフスキー・システムでは、そこは絶対条件です。

 
今の自分と正直に向き合って《受け入れ》なければ、先には進めません、全く。

 
頑固に自分を変えられない俳優ほど、時間がかかります(かかった~)。


が、やがて、正直に自分に耳を傾ける時がやってきます。
 

そして、

 
「あぁ~、オレって、ホントにな~んにも知らないんだなぁ。出来ないんだなぁ~。」

 …あぁ、実感。
 

 
今度は違う《段階》を経て、意識が動いて行きます。

 
スタニスラフスキー・システムを通して→

→未熟さを《認め、受け入れる》
 
 
チェーホフなどの優れた作品を通して→

→人は、《知らない、わからない、出来ない》と言っていいんだと知る

 
さらに、

 
《知らない、わからない、出来ない》→ 
 
 →それは《素晴らしい、面白いことなんだ!》と、実感する。
 
「世界は《未知》で溢れているんだ!!」 

 
すると、すご~く楽になったのです。

 
俳優修行だけではなく、日常生活までが! 


 
田口ランディさんが、『神様はいますか?』という本で、

《わかりあえる》
 
と思っているあいだは苦しく、

《わかりあえない》

のが基本だと悟った時、すごく楽になったと、書いてらっしゃいます。

 
似ている気がする。 

 
《わかりあえるはずだ》
 
 という考え方には、相手に対する《要求》が織り込まれていますから。

 
例の《確信》も、最後には、「なぜみんなわかってくれないんだ~。」という、同じ《要求》へ行き着くから苦しかったんですねぇ。
 
 
生前、赤塚不二夫さんが、
 
「自分が一番バカだと思っていればいいんですよ。」

と、おっしゃってました。
 
真意はわかりませんが、なんだかスーッと心に入って来るんです。

「これでいいのだ。」
 
 
チェーホフは、“数えで43歳”のベルシーニンに、

「僅かのことしか知らない。」

と、素直に語らせました。
 
スタニスラフスキー・システムは、

《わからないこと、出来ないこと》

は、恥でもなんでもなく、《可能性》であり、《楽しみ》だと教えてくれました。


 
そして今、《ほんとうに大切なこと》は、ほんの少ししか知らないし、出来ないんだなぁ~と、実感しています。

 
そして、少しずつ人間らしい目が開くかもしれないと、楽しみになってもいます。


まさに、 
 
『チェーホフがいてくれて』

よかったです。


 
 長々と、告白めいた話にお付き合い、ありがとうございました。
 
 
国際チェーホフ・フェスティバルについては、HPをご覧ください。


では、また…。
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