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2009-02-16(Mon)

ちょっとした話 17

  17 『マーロン・ブランドの演技論』
 
  遥か昔、7、8年前になりますかな…。
  私が、初めてアニシモフ氏を見た日。
  氏を交えて、アメリカの演出家の方々と、俳優のためのシンポジウムが開かれておりました…。
  そこで印象に残った言葉があって、今でも覚えております。
  それが、『マーロン・ブランドの言葉』(今回は、アニシモフ氏ではないのですが…)
  マーロン・ブランド氏いわく、
 
 
…「私は演技などしない。反応するだけだ。」
なり。
 
  スタニスラフスキー・システムなど、ついぞ知らない頃ですから、
 
  「ほう、マーロン・ブランドはそうなんだな。」
 
 と、ただ単に思ったものでした。
 
  さて、『ちょっとした話』の、最初の頃に、
 
   《受容》《分析》《判断》《放射》→ 
 →《受容》《分析》……
 
 …のキャッチボール というのを書きました。
  マロ氏
 …「私は演技などしない。反応するだけだ。」
 の、《反応》とは、
 
 
 …すなわち《受容から放射に至る全行程》
 
のことです。
 
 《放射》というと捕らえにくいので、以後《行動》とします。
 
  《行動に至る》、すなわち《反応する》とは、
 
 
…《何かを受け取り、状況と突き合わせて考え、決断を下し、実行すること》
  漠然と感心した言葉でしたが、不肖わたくしめもスタニスラフスキー・システムなるものを少々かじり、
  「なるほど、そういうことかぁ。」 と思う、今日この頃。
  そして、2、3年前に、マロ氏の言葉に少し付け加えさせていただきました。
 
 …「私は演技などしない。《正しく》反応するだけだ。」
   『正しく』
 
  ただただ《反応》すればよいのなら、そりゃあ天文学的な数の《反応》ができます。 私たちが歩むのは、創造的芸術の道。 そこにあるのは、総合芸術。
  作家がいて、戯曲があり、俳優がいて、演出家がいて、観客がいる。
  無茶苦茶に、いい加減にあいまいに《反応》すれば、意味も感情も失われてしまうのです。
  作曲家のストラビンスキー(でしたか…)いわく、
  「芸術における《自由》とは、制限され、監督され、加工されてこそ、輝きを増すものである(でしたか…)。」 なるほど演劇芸術には、作家が示した《提案された状況》というものがある。 演出家が示す《方向》がある。
  そのような影響の基に、《反応》は制限され、監督される。
 
  しかしですな、制限を受けたところで、《反応》が天文学的な数であるのには、変わりありません。
  なぜなら、人間(俳優)の数だけ、個性の数だけ、ほかの誰にも真似できない《反応の現れ方》があるからです。
 
 いえいえさらに言えば、そのような《状況》や《方向》、すなわち《正確さ》を与えられることによって、意味と感情が開かれ、俳優は《自由》を獲得し、作品は輝き出すのです。
 
 (だって、なんの理由も情報もなく、いきなり「はい、なんでもいいから今すぐ自由に反応して!」な~んて言われても、動けません。)
 
  創造的《自由》は、ある条件の元に置かれ、ある方向性を確信した時に、個性に応じた現れ方をするのです。
  それを《正確さ》と呼びたい。
  ですから、戯曲の分析を丹念にやりますし、いろいろなやり方で、舞台上で《自由》になるための訓練をするのです。
  《正確さ》を追求して……。
  …「私は演技などしない。《正しく》反応するだけだ。」…
  …く~っ!、いつでもそれができたらなぁ~。
  では、また…。
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