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2009-03-19(Thu)

ちょこちょこっとした話 7

ちょこちょこっとした話 7
 
 『カムパネルラの母』 さて、今回は、読み物です(じゃあこれまでは、なんだったんだ、と。)。 読み物ですから、今回はすご~く、ものすご~く長いですよ~。
 
  え~、
 わたくしは、宮沢賢治の研究者でも、学者でもありませんので、「まぁ、そんな考えもあるかね。」、と読んで下さい。 テーマは
 
 カムパネルラの母は
 『生きているのか?』
 『亡くなっているのか?』  「読めばわかるじゃないか。」 という声が聞こえてきそうです。
 
 東京ノーヴイでも、話に出たことはありません。   多くの人が、 カムパネルラの母は、『亡くなっている』 と考えているようです…。
  …ので、ま、「よしよし、読んでみてやるか。」と、暖かい目で、素人の推理を窘(たしな)めてやって下さいませ。 前提としてあるのは、『銀河鉄道の夜』が
 
 ☆《未完》の作品☆
 
 だということ。
  東京ノーヴイで上演しているのは、一番有名な第四稿。 賢治、存命のうちに書かれた最終稿。   決定稿ができないまま絶筆していますので、
 『正解など無い』
が正解でしょう…。
 
 
  では、また…。 
 
  …あ~いや、ここからです。
 
 
  ポイントは三つ。
  ◎ジョバンニの驚き ◎ほんとうの天上 ◎きれいな野原
 
  では……
 
 
 私たちは、スタニスラフスキー・システムを学んでいます。 その中に、《もしも私が》というメソッドがあります。 そこで、第一のポイント。
  ◎ジョバンニの驚き
  銀河鉄道に乗り込んですぐの、カムパネルラとジョバンニの会話で、賢治は、こう書いてます。
 
 『
 カムパネルラ…「おっかさんは、ぼくをゆるしてくださるだろうか。」
  ~(中略)~ ジョバンニ…「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」 ジョバンニはびっくりして叫びました。
 』 
  そこで、 《もしも私が》ジョバンニのような立場にいたら…。
 
 ○提案された状況
  小学生。たぶん4年生か、5年生ぐらい。
 仲のいい友達が、何かの理由で、お母さんが悲しむだろう、と感じている。 「お母さんの幸いのためなら、なんでもする。」と言う。
 
 
 ①、もしも彼の母親が『亡くなっている』としたら。
  言葉の意味は、 …「君のお母さんは、天国で安らかに眠っておられるのだから、しあわせでいらっしゃるでしょう。なんにもひどいことは無いじゃないの。」
ということになりますか…。
 
 
 賢治は、
『ジョバンニはびっくりして叫びました。』
 と、書いています。
 
 何に《びっくり》したのか? 《叫んぶ》ほど。
 
 
 「カムパネルラ、君は天国のことをわかっていない!」
 と、《びっくり》したのでしょうか?
 「天国では、みんなしあわせのはずじゃないか!」
 と。
 思わず《叫ぶ》ほど。
 
 私が小学生だとして、お母さんを亡くした友達に、そう言うだろうか?  
 あまりに論理的で、倫理的で、道徳的で…。 そのことで、《驚ける》かしら?
 
 あなたなら、どうですか?
 
  これが、疑問の発端。
 
 では、
 
 ②、彼の母親が『生きている』としたら。
 
 《もしも私が》《びっくり》するなら、
 
 「いったい、何があったの!」
 と、《びっくり》します。 「最近、君のうちに行けなかったけど、君が、お母さんのしあわせを願わなければならないような…なにか、具合のわるいことでもあったの?!」 と。 これなら、びっくりしている小学生の会話を、自然に受け止められます。
 
 なぜ、多くの人が、 『亡くなっている』 と思うのでしょう? 私が思うに、理由は二つ。 銀河鉄道の旅の終わりに(天国の入り口近くで)、カムパネルラが《おっかさん》を見かけること。 もうひとつは、ラストシーンで、お父さんの博士は出てくるけれど、お母さんが出て来ないこと。 この印象が、とても強いのでしょう。
  さて、旅は続き… 第二のポイント
 
  ◎ほんとうの天上 列車は北十字を通って、終点の南十字へと向かいます。
 《ほんとうの天上》という言葉を初めて使うのは、《鳥捕りのおじさん》です。 ジョバンニの切符を覗き込んで、 「…こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。」
 鳥捕りのいう《天上》とは、どこを指しているのか。 おそらく、普通に言う《天国》でしょう。 《鳥捕り》はそこまで行けない。うらやましい。 「…天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券でさぁ。」 言うまでもなく、ジョバンニは現世へまでも帰って行けるということです。
 
  夢の中(別世界)では、
 心に思ったことが現実になったり、 知らないはずのことを知っていたり、 普通では起きないような不思議なことがおきたり…。 そうして列車は、だんだん高い精神世界を目指して、天上へと向かいます。 《鳥捕りのおじさん》は、命を捕って生活する段階の人。 旅の早い時期に現れ、去ってゆく。 『どこまででも行く』ことはできないのです。 タイタニックの三人は、生きようとしましたが、あきらめて、他の人々が助かったのを『幸い』としました。 『自己犠牲』の精神の高さで、《鳥捕りのおじさん》より、天上近くまで乗れるのです。
 シスターや、灯台守りなど、いろいろな段階の先生が、ジョバンニ達の前に現れ、精神世界のことを教えていきます。
  カムパネルラは、なぜだか最後まで、列車に乗っている。
 《自己犠牲》の意識の高さか。 ジョバンニがいる影響もあるのかもしれません。 まだ、魂の全てが、列車に届いていず、息を吹き返す可能性がある状態なのかも。
 そしていよいよ、別れの時。 そう、そうなのです。
 
 私もここまでは
 『カムパネルラの母親が生きていること』
 が自然に思われるのです。
 
 が、ここからは、どちらとも……。 《未完》ゆえなのかもしれません。
 
 
 旅が終わりに近づき、再び《天上》が登場します。
  ~サウザンクロス(南十字星)。 この停車場で降りて、神様の祝福を受けて、天国の門をくぐります。 かおる子のセリフ。 「…あたしたちもうここで降りなきゃいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから。」
  ……………
  え~ 東京ノーヴイの『銀河鉄道の夜』公演の時、岩手(湯田)の銀河ホールの館長をなさっていた、我々にはお馴染みの 新田さん が、アフター・トークで講演をして下さって、《宮沢賢治》についてお話下さいました。 ◎カムパネルラのモデルは、彼の一番の理解者であった、妹のトシであったこと。
 (トシは、若くして病気で亡くなっています。 賢治はその死をたいへん悲しみました。) ◎賢治はその後、鉄道を乗り継いで、北へ北へと、行けるところまで旅したこと。 トシを失った哀しみを乗り越えるための、思索の旅になったそうです。 そして、賢治は、 ◎トシは逝ってしまった。
 私たちは、悲しむために遺されたのではない。 この世界を、できる限り、より良い世界にするために残ったのだ。 という考えに、たどり着いたこと。 ◎その鉄道の旅が、『銀河鉄道の夜』に活かされている、と。  ………………
  私、その話を聞いて「ハッ!」としたのです。 サウザンクロスが近づいた時、ジョバンニとかおる子が《神様》について言い合います。 ジョバンニ 「…天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなきゃいけないってぼくの先生がいったよ。」 《天上》よりももっといいところ…。 それを僕たちは、《ここ》でこさえる…。 思索の旅を通して賢治がたどり着いた考え。 《ジョバンニ》は賢治自身だそうです。 《ここ》とは、もちろん、我々が生きている現世。この世。
  賢治の言う
 《ほんとうの天上》とは? 生まれ変わりを信じていたのなら、
賢治は、《トシ》とともにいた現世を、 再び《トシ》と巡り合って、二人で努力する来世(つまり、この現世)を《ほんとうの天上》だ
と感じ始めていたのではないだろうか…。 なんて、私、思ったのです。 ジョバンニは、懸命になって、みんなが列車に残ることを願います。 現世で、より良い世界を作ろう、と呼びかけます。
  ジョバンニが賢治なら、
 《天上》は《神様のいる天国》、
 《ほんとうの天上》とは《現世》
と、考えたのではないだろうか、と。
 さて
 
 ◎きれいな野原
 
 
 『
 「ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集まってるねえ。
 あすこがほんとうの天上なんだ。
 あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」
 カムパネルラはにわかに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。
 』
  このくだりがあるから、わからなくなるのですが、普通に読めば、そのきれいな表現からして《天国》だと感じます。 ここからは、まぁ、《ホント、もしかして~》の解釈ですが、
  《天国》であるとする解釈には、説明の必要はないでしょう。 お母さんは間違いなく『亡くなっている』のです。 もし、『生きている』としたら。 …人は、亡くなり、魂が体を離れると、自分を取り巻くようすを上空から俯瞰して見る、といいます。 この場合、そうとう上空ですが、そこはそれ、《不完全な四次元軌道》ですから。 カムパネルラが落ちた川の周りには、捜索する男達がいるでしょう。 女達が、家やほかの場所で集まり、知らせを待ったり母親を慰めることも、不思議ではありません。 『みんな集まってる。』
 
 カムパネルラの見た《野原》を、文字通り《草原》ととらずに、宇宙の一角にある《現世》の《イメージ》ととらえれば、
 (というのも、《野原》が《天国》を指しているなら、それもカムパネルラの心に映った《天国》の《イメージ》ですから…)
 
 いつもと違って、《銀河のお祭り》でたくさんの人々が町に繰り出している、ましてやカムパネルラを捜すために、『みんな集まっている』光景が見えたとも解釈できるのでは? カムパネルラの銀河鉄道の旅は、
 《お母さん》への心遣いから始まります。 最後に、天上へ行くまえに、一目《お母さん》を見ることで、終わるのではないかと。
 
 …そんな風にも思われるのです。 長いこと、読んでいただき、ありがとうございました。 ホント、長かったですね~。 第五、第六稿が書かれていたら、どんなだろうと思います。 《未完》の作品ですから、この長い考察でも、答えはわかりません。 ただ、賢治の優しい、高い考えに触れられることが幸いです。 『全体の幸いがなければ、
 個人の幸いはありえない』 …宮沢 賢治 まとまったような、まとまってないような…。 では、また…。
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